ぼくの財布と携帯を盗んだ人の話。
2072年5月19日、俺は死んだ。
いい人生だった。
シンプルな言い方だけどそれに尽きる。最期の瞬間は娘の優子が右手を握ってくれていた。優子の指がこんなに繊細で美しい形をしていることを、もう少しだけ早く知りたかった…そんな穏やかな思考に導かれるように身体がフッと軽くなった。
気がつくと俺は真っ白な空間にいた。
地面も空もすべてが真っ白だ。きっとここがあの世(便宜上そう呼ぼう)なのだろう。
死んだ自覚はあってもどうしたらいいのかわからない。あてもなくフラフラと歩いていると遠くに二つの行列が見えた。目を凝らして見るとその列はそれぞれ二つのドアに続いているようだった。俺もあの列に並ぶのだろうか…? 心なしか足取りが速くなる。
行列に並んでいる人は皆俺と同じ白い服を着ている。全員死んでいるのだろう。
左の列に全体の九割が並び、右の列はまばらだった。
左の列の人は、和やかな顔をして談笑などをしている。
右の列の人は、緊張した面持ちであまり目つきがよくない人もいる。
どちらに並ぶべきか考えあぐねていると紺のスーツを着た男が近づいてきた。
どう考えてもスタッフだ、と俺は思った。
「おい、お前ここは初めてか?はやくどっちの列に並ぶか決めろ。左は天国行きで右は地獄行きだ」
なるほどそういうことか。よくみるとドアの上にはそれぞれ明朝体とゴシック体で「天国」と「地獄」と書かれている。深いため息が出た。ここでわざわざ地獄を選ぶヤツなんているのだろうか? 少し呆れながら左側の列に並ぼうとしたその時だった。
「あー待て待て待て。お前はそっちはダメだ」
さっきのスタッフが分厚い帳簿のようなものを眺めながら俺の肩を掴んできた。
「なんだよ離してくれ。俺はこっちの列に並ぶよ」
びっくりしながら応えるとスタッフは妙なことを言い出した。
「お前は人生がんばったで賞ポイントがマイナスだから地獄行きだ」
人生がんばったで賞ポイント…?
意味がわからず呆然としているとスタッフは続けた
「いいか、人生がんばったで賞ポイントは今までの人生でいいことをしたら溜まり、悪いことをしたら減るポイントだ。例えば【サンマを綺麗に食べられたらプラス1点】【自分のビニール傘じゃないと確信しているのに自分の持ってきたやつより丈夫そうだからこっちもらっちゃお!】みたいなことをするとマイナス2ポイントだ。お前はそれの総合点がマイナスだった」
「ちょっと待ってくれ、俺が何をしたと言うんだ?確かに幾つかの小さな過ちを犯してきたことは間違いない。でもそんなの人間誰しもそうだろう? それ以上に俺は一生懸命生きてきたし善行も重ねてきた自負がある。もう一度調べなおしてくれ。しかも人生がんばったで賞ポイントってネーミングはなんだ人生がんばったポイントじゃダメなのか?」
そう懇願するとスタッフは人差し指を俺の顔の前で突き立てながら厳しい表情でこう言った。
「確かにある出来事を除けばお前の総合点は問題なくプラスだった。何か思い出せることはないか?」
冷や汗が首筋を伝う。何も思い出せない。
大きな音を立てて唾を飲み込むとほぼ同時にスタッフの怒号が真っ白な空間に響いた。
「2016年3月25日の未明に京王井の頭線の車内で眠りこけている好青年の財布と携帯を盗んだだろ!!!あれでマイナス10万ポイント!!!!」
頭にカミナリが落ちたような衝撃を感じた。
そうだ…思い出した…まだ俺が若い頃の話だ。
「思い出したか?そういうわけでお前は右の列に並べ。後ろがつかえているから急げ」
腕を掴まれて、強引に右の列に放り込まれる。
左の列に比べると随分と人数が少ない。地獄へのドアまではあっという間だ。
最期に懺悔をしようと思っても俺にはあの青年の顔がぼんやりとしか思い出せない。
「あぁ、ごめんよごめんよ。ハッキリと顔が思い出せない青年。なんとなく伊勢谷友介に雰囲気が似ていたことだけしか思い出せない青年…」
声に出しても後の祭りだ。
そういえばあの朝はよく晴れていた。
そんなどうでもいいことはハッキリと思い出せるのに。
代筆・シモカワ