おばあちゃんの話。
おばあちゃんが逝った。
88歳。
大往生の定義はわからないけれど、大往生であったと思う。
この投稿をシェアしたのは、同情して欲しいとか、現代っ子だからとかそういうことではなく、自称おばあちゃんっ子&実家でずっと同居していたオレが、おばあちゃんがいかにファンキーでチャーミングでイカしていたのかということを皆さんにお伝えしたいからである。
少し長くなってしまうかもしれないが、孫バカのワガママに煎餅等をかじりつつお付き合いいただけると幸いでございます。
【1】おばあちゃんは料理の人であった。
オレが物心ついたとき、おばあちゃん(そう呼んでいたのでそれで通します)は既に結構なおばあちゃんだった。たぶんオレよりも先に生まれていたのだろう。かなりの歳上だ。
当時我が家は、流行の二世帯住宅。両親は共働きだったので必然的におばあちゃんとの時間が多かった。保育園への送り迎えをしてもらったり、一緒にボードゲームをしたり、テレビを見たりしていたようだ。外で遊んでもらったという記憶はあまりない。孫同様、インドア派だったのかもしれない。
夕飯の準備もおばあちゃんがしてくれていた。
いいおばあちゃんのテンプレみたいで申し訳ないのだけれど、おばあちゃんはめちゃくちゃ料理が上手だった。いや、ホントに。
何でも美味しかったのだけれど、特に炒飯は絶品で頻繁に作ってもらっていた。
たぶん、なんか変な粉とか入れてたんだと思う。
忙しい母の代わりに、おばあちゃんが幼少期のオレの身体を作ってくれたのだ。
あ、そういえばちょっと残念なことがある。
おばあちゃんが作る肴で酒を飲んでみたかった。
おじいちゃんが大酒飲みだったからたぶんステキな肴をたくさん知っていたに違いない。
ちなみに、当時のオレは酒を飲んだり喫煙したりするヤツもうgood nightだと本気で思っていて、つまりそういう人はダメ人間であると定義しており自分は絶対にそのカテゴリーには入らないと決意していた。できればその気持ちをいつまでも大切にしていてほしかった。
【2】おばあちゃんは寛容な人であった。
そんな感じで炒飯を食べ続けていたオレは、あっという間に中学生になった。
中学といえば思春期である。思春期は忙しい。部活をしたり、テスト勉強をしたり、校舎の窓ガラスを割ったり、親に隠れてトゥナイト2を見たりしなければならない。そんなわけでおばあちゃんとの仲は疎遠に……とはまったくならず、相変わらず可愛がってもらっていたし、炒飯を食べていた。
おばあちゃんに怒られたという記憶が殆どない。
おばあちゃんはとてもおっとりしていて、所謂天然キャラだった。
いつもいつもニコニコ、ニコニコ。
あ、でもそうだ、学校をサボって部屋で寝ていた時は怒られた。
婆「ようちゃん(おばあちゃんがいなくなったのでこう呼んでくれる人は世界にいなくなった。)なんで平日なのに部屋で寝ているの?」
洋「今日は創立記念日なんだよ」
婆「先々週も同じこと言ってたよ」
一方のオレもおばあちゃんに反抗したり悪い態度をとってしまったということはたぶん一度もない。中学から高校の頭にかけてヒドイ反抗期があって、今思い出しても本当に申し訳なさと情けなさでいっぱいになるような言葉や態度を親にぶつけていた時期でも、そういうことは一度もなかったと思う。
ただ、ゴキブリを怖がっているオレを情けないと笑い、自分が退治したゴキブリの死体を無理矢理オレに触らせようとした時は流石に「このババア」とちょっと思った。何故かおばあちゃんはゴキブリに対しての憎悪と執着がすごかった。たぶん昔、火星で仲間を殺されたんだと思う。
【3】おばあちゃんは「あら、いいじゃない」の人であった。
高校生になり、受験を迎え、大学生になるとますます忙しくなり、家にいる時間がかなり少なくなった。そんなわけでいよいよおばあちゃんとは疎遠に……とは一切ならず相変わらず仲はよかったし、炒飯を食べていた。
おばあちゃんはたいてい家にいたので、大学から朝帰りしても昼帰りしても夜帰りしてもいつでも会うことができた。
婆「ようちゃんなんで平日なのに部屋で寝ているの?」
洋「今日は3限からなんだ。大学の授業っていうのはね〜云々〜だから今日は午後からいけばいいんだよ」
婆「ふーんそうなのね」
というようなやりとりを1限の授業がある日によくしていた。
おばあちゃんに何かを否定された記憶がない。
おばあちゃんは何でもポジティブにとらえ、認めてくれる人だった。
何を始めても何を辞めても、成功はもちろん失敗した時も「あら、いいじゃない」と言ってくれた。ヘイポーではないぞ。
将棋をはじめた時も
ドラムをはじめた時も
高校の時留年しそうになった時も
第一志望の大学に落ち、第二志望への進学を決めた時も
仙人みたいに髭を伸ばしていた時も
金髪にして先っぽが尖った靴を履き木こりベストを着ていた時も(この件に関してはおばあちゃんが許してもオレはいまだに許していない)
悩んで就職先を決めた時も
そして仕事を辞めて、コピーライターになると決めた時も
「あら、いいじゃない。ようちゃんなら大丈夫、やりたいようにがんばるのよ」
と言ってくれた。
誰かに認めてもらうということがどれだけ人の心を軽くし、背中を押し、足を前に向かせるのか、それを教えてくれたのもおばあちゃんだった。
【4】おばあちゃんは気遣いとオシャレの人であった。
話が前後してしまうが、大学を卒業し、オレは就職した。
配属先は兵庫県。生まれて初めて実家を離れることになった。
そんなわけでおばあちゃんとはいよいよ疎遠に………少しだけれど、なってしまった。
もちろん物理的に離れているというだけで会えば相変わらず仲はよかったし、オレは炒飯を食べていた。ただ、以前のように毎日おばあちゃんの様子がわかるという状態ではなくなった。その後、オレは転職を機に東京に戻ってくるのだが、実家には帰らなかったので、おばあちゃんと毎日顔を合わせるということは相変わらずできなかった。
その頃から少しずつ、だけど確実に、おばあちゃんは歳をとった。
足腰が弱くなり、物忘れが激しくなった。
そう、元気がなくなったというより歳をとったのだ。
そして2013年の秋頃、おばあちゃんは実家近所の老人ホーム的な施設に入居することが決まった。老人ホームというと少し閉鎖的なイメージがあるかもしれないが、おばあちゃんが入った施設はなんというか超いい感じに明るくて、ハッピーでピースフルでスタッフさんもヤバいいい人で、ボキャブラリーが貧困になるくらいいい施設だった。
いつでも会いにいくことができたので定期的に遊びにいった。
そうそう、おばあちゃんはすごくオシャレな人で、自分の服もステキだったんだけど(ブローチとかの小物使いが上手だった)人の装いもよく見ていて、新しい服やら帽子やらで会いにいくとすぐに気がついて褒めてくれた。なのでこちらも張り切って変な帽子とかをたくさん買ってしまったよ。どうしてくれるのだ。
帰り際に「またすぐ来るね」というとおばあちゃんは決まって「仕事とか忙しいだろうし大丈夫だよ。気を遣わなくていいよ」と言った。アホかよ、気なんて遣ったこと一回もねーよ。いつも自分のことは後回し、周りのことばかり考えている人だった。
【5】おばあちゃんは孫の今後を心配する人であった。
それから数年が過ぎ、やっぱりおばあちゃんは少しずつ歳をとった。
身体能力の衰えもさることながら、記憶力の低下が著しかった。
話した内容をすぐに忘れてしまうのだ。
婆「ようちゃんは今どこに住んでいるんだっけ?」
洋「下北沢だよ」
婆「そっか、あそこはいいところだねぇ…...ところでようちゃんはどこに住んでいるんだっけ?」
という具合である。
最初のうちはビックリしたし悲しかったが、オレが誰だかわからなくなってしまうということはなかったし、よく考えたら酔っ払っているときのオレも似たようなものである。なので対した問題ではなかった。
遊びに行くたび「オレは29歳のコピーライター、職場は銀座、住まいは下北、悪そうなやつはだいたい怖い」という趣旨のことを16回くらい説明し、おばあちゃんも負けじと同じ事を何度も聞いた。ヘビーなリリックの応酬である。しかし、そんな感じにも関わらず最後はやっぱり「もうしばらくこなくていい、気を遣うな」で締めるおばあちゃんであった。
あ、問題なかったと書いたがひとつだけあった。おばあちゃんはオレが未だに独身であることをすごく気にしていて、それが結構大変だった。(オレ以外の孫は全員結婚経験者だ)「結婚したかい?」と聞かれ「まだだよ」と答えるとすごく残念そうな顔をする。おばあちゃんは上記のようなMC状態なので行くたび同じ事を聞き、毎回残念な顔をする。
かなり悩んだが、ある時期を境にオレは一芝居打つことにした。
結婚している設定にしたのである。
おばあちゃんのためと言う勝手な大義名分はありつつ、正直、これがかなりキツかった。
婆「ようちゃん結婚は?」
洋「実はね、こないだ籍を入れたんだよ。報告が遅くなってごめんね」
こう言うとおばあちゃんは本当にうれしそうな、そしてホッとしたような顔をする。
胸が痛い。痛いがもう引けない。
婆「よかったねぇ…なんていう名前の人?」
洋「……ナナちゃんだよ」
婆「そう、いい名前だねぇ」
次会った時にも当然同じ流れになる。
婆「ようちゃん結婚は?」
中略
洋「…ミーナちゃんだよ」
また後日。
婆「ようちゃんけ…中略」
洋「…リナちゃんだよ」
とこのように安室奈美恵の後ろで踊っていたダンスグループのメンバーの名前等を拝借しつつ、毎回毎回大嘘をつくのだ。ヒドい孫だと思われるかもしれないが、どうしても嘘をつかねばならぬ理由があった。
おばあちゃんとの別れが近づいていたからだ。
【6】おばあちゃんはおばあちゃんであった。
おばあちゃんとの激しいフリースタイルバトルを繰り広げていた2016年の秋頃、
おばあちゃんの身体に癌が見つかった。年齢、癌の進行を考えるともう手の施しようがなかった。
担当のお医者さんは母に「サクラが見れたらいいですね」と言ったそうだ。
なんだよ。aikoみたいに言うな。告知ってあっけないのだなと思った。
そこからは以前にも増して会いに行き、未来の話をした。
元気になったら何をしよう、どこへ行こう、何を食べよう。
なぜか悲壮感はなく、感じたのは謎の浮遊感。
あれは何だったのだろう?不思議な気持ちだった。
オレは下北の愛すべきバカな仲間の話やなんやをして、おばあちゃんは結婚祝いに俺と嫁の新居に最新式の洗濯機を買ってやると豪語した。
ゆっくりゆっくり穏やかな時間が流れた。
そして、2017年2月27日の早朝、おばあちゃんは呼吸を止めた。
最期まで全身を管に繋がれることもなく、母やオレに「どちらさま?」なんて言うこともなかった。最期にかけてくれた言葉は「こんな場所にいないで早く仕事に行きなさい」だった。あっぱれ。すげーよやっぱ。
2017年現在、オレは死後の世界というものを信じていない。
のだけれど...信じたくなってしまうよ。
もしそういう場所があるのだとしたら、おばあちゃんは取り急ぎオレが実は独身だったことに対して心底ガッカリしていると思う。許してくれ。
"見守る"という表現はなんか恥ずかしいし好きじゃないのでアレです。好きだった料理や編み物や大河ドラマ鑑賞や昼寝の合間、たまーーーに「どれどれ?」って感じで様子を見に来てほしい。その時に「あら、いいじゃない」と言ってもらえるように精一杯頑張りたいと思う。
オレは実はもういい大人なので毅然としなければならない。
でもきっと醤油の焦げた匂いのする炒飯や、大きな水たまりや、花のブローチや、ツギハギのあるGパンなんかを見るたびに、たまらなくなって、そしてその後穏やかな気持ちになるのだと思う。
おばあちゃん、いつもオレのことを肯定してくれてありがとう。
味方でいてくれてありがとう。清く正しいおばあちゃんでいてくれてありがとう。
そして、そして、そして、さようなら。
母に頼んで、おばあちゃんが遺したお金の一部をもらった。
もしいつか結婚したら、そのお金で洗濯機を買おうと思う。
シモカワ